あさぶの歴史

亜麻物語

亜麻亜麻はアマ属アマ科の一年草草本です。原産地は中央アジア付近といわれ人類が最初に用いた繊維植物として知られています。茎から採る繊維からは絹にも似た優美な麻衣(リネン)を織り種からは乾燥性の亜麻仁油(あまにゆ)を搾ります。亜麻は冷涼な気候風土に適し夏季収穫の工芸作物として全道各地で栽培されました。播種期は4〜5月の頃、茎高は60〜100センチ真っ直ぐに伸びた直径1.5ミリほどになる中空パイプ状の木質周囲に繊維束が形成されます。

*欧米では亜麻糸で織られた布地をリネンと言います。古代エジプトでは「月光で織られた生地」と尊重され、神事に欠かせない織物でした。現在でも、格式や権威を大事にする英国王室や米国ホワイトハウスなどの晩餐会をはじめとして、世界中の一流ホテルなどで使われるテーブルクロスやナプキンはリネンです。リネン製品は洗濯するほどに軟らかく光沢を増し、通気性にも優れるサラッとした肌触りが特徴です。

亜麻の開花

亜麻亜麻の開花は60日頃から淡い青紫か白色の小さく可憐な五弁の花を咲かせます。開花期間は2〜3週間と楽しめますが一つの花弁の盛りは余りにも短く夜明けに咲き始め、昼頃までには散ってしまう儚さです。
亜麻の花が散ると5室2個づつの種が入った実を結びます。収穫は茎下部の葉が落ち、黄変した頃、茎は黄熟して光沢を帯び楕円形の扁平な種も艶々とした茶褐色になっています。繊維を採るには天日干し・浸水などの作業を経なければなりません。

*亜麻の日本伝来記述は江戸元禄期(1690)に武州王子の薬草園で試作されたなどに見られますが、明治7年、駐露大使・榎本武揚が北海道開拓に有望な作物と着目し、紹介を受けた北海道開拓史長官・黒田清隆が札幌農園に試作を命じたのが起源定説とされています。そして、「本邦製麻業の恩人」と称えられる農商務省技師・吉田健作の奔走が北海道製麻(株)の設立へと導き、亜麻産業隆盛の歴史を歩む端緒となります。

亜麻と麻生と

現在も麻生町3丁目の路上に立つ「アカマツ」の木が往時の名残りですが、亜麻工場は当初「製線所」と呼ばれ、収穫亜麻茎から繊維を抽出する一次加工の原料工場です。所在地が琴似町に所属していたことから「琴似」の名称が付けられ、「雁木」に次いで2番目に古い工場として亜麻産業史に記されています。昭和32年10月に閉鎖された琴似亜麻工場の歴史は、明治から昭和の麻生町を語る大切な1ページです。因みに、初代工場長は吉田健作、閉鎖を見守ったのは麻生の名付け親・黒川修策工場長です。

北海道製麻(株)琴似製線所は明治23年6月に起工、本場ベルギーから招いたコンスタン・ウィブレヒト氏の指導で採繊用のムーラン機30台・大麻破砕機5台、亜麻茎を浸潤する浸水池4面を備え、翌年8月から操業を開始しました。
工場には農家と亜麻栽培の契約や指導を行う耕作奨励係や浸水・採繊などの作業部門、経営管理部門が置かれ、工場法の適用改革で「琴似亜麻工場」と改称した昭和15年の記録によると、従業員数は250名、10戸長屋5棟を含む社宅が201戸、原料の亜麻を収納する倉庫など17棟を有していました。

満州事変以後の軍備拡張によって、軍服やテントなどに多用される亜麻製品の需要は増大し、第2次世界大戦終戦までの生産統制令による強制作付けで栽培面積も飛躍を続けました。しかし、戦後の食料優先事情と化学繊維の台頭が原因となり、亜麻事業衰退の歩みを深める32年秋に琴似工場が、6年後には製品加工の札幌工場も幕を閉じてしまいます。そして、明治以来続いた契約栽培も46年を最後に打ち切りとなり、亜麻は日本から姿を消しました。

*亜麻栽培が活発になるのは、耕作奨励と製麻工業の勃興に終生を賭した吉田健作の、10年以上に及ぶ全国行脚の訴えが成就する、北海道製麻株式会社が設立した明治20年以降と言えるでしょう。耕作奨励作物となった同23年の作付面積338町歩が順調に推移し、日清戦争の27年には一千町歩を突破、絶頂期となる大正9年の作付けは4万2千町歩を記録、大正10年時には亜麻工場も全道85ヶ所に達しました。

*日本では古事記の時代から「麻(アサ)」が登場しています。下駄の鼻緒芯で知られた野州麻と呼ばれる大麻や夏の衣服としてお馴染みの越後上布・薩摩上布の原料となる苧麻(ちょま・からむし)、南京袋の黄麻などを総称して「麻」と呼んで親しんできました。最近ではファッション界でも「麻」に人気があるようですが、家庭用品品質表示法では亜麻と苧麻を原料とする2種類に限ると規定さています。外国では勿論リネンだけが「麻」です。

亜麻の未来

亜麻亜麻の可憐な姿を一人でも多くの人に見て貰おう!かつて隆盛を誇った歴史を大切に受け継ぐ麻生町の変遷も…。やがては、亜麻に魅せられる人たちの絆がふる里を興し明日への活力を養う力強い街づくりへの源泉となるように…。

*明治23年5月に開業した北海道製麻(株)本社工場は、吉田健作によるフランス式設計の近代的な紡績工場として赤レンガ造り6棟・建物面積は3千余坪、その規模は札幌麦酒(株)工場と並び称される威容を誇りました。明治40年の会社合併で帝国製麻(株)(戦後の企業解体で帝国繊維)札幌工場などと変遷を辿り、昭和38年に閉鎖されました。北7東1のテイセンボウリング場がある一帯が「本邦稀有の大工場」と形容された跡地です。

亜麻物語

参考資料:北海道亜麻産業七拾周年記念誌、美幌叢書・美幌の亜麻工場、日本の製麻業、帝国製麻五十年誌、北海道における亜麻事業の歴史、麻生のあゆみ、新琴似百年史、帝国製麻三十年史、郷土読本・しんことに亜麻の実研究所、ふるさとの思い出写真集・札幌、コミュニティー紙5叉路100号縮刷版

麻生の歴史と変遷

かつて麻生町は、札幌市と合併前まで琴似町字新琴似の一部「新琴似番外地」と呼ばれ、コウモリが飛び交い、ヘビがうようよしていた湿地帯だった。市教委が行った麻生の埋蔵物調査(昭和53年)では、約1千年前の擦文式土器や住居が数多く発見されており、アイヌなどの先住民や琴似川に沿って生活した人々がいたことも、幾多の郷土資料によって明らかになっている。明治以降の麻生には、亜麻工場の設置(明治24年)、麻生団地の誕生(昭和33〜36年)、地下鉄開通(昭和53年)など3つの激動期がある。今や1万1500世帯、人口1万8千人以上の都市に発展した「麻生」。
その歴史と変遷を簡単にたどってみよう。

擦文時代から屯田兵入植

先人のくらし・擦文時代

土器明治から昭和初期にかけての地図には、麻生を南北にうねうねと流れる琴似川が記録されている。植物園付近を源に、北大構内から新川、麻生を経て篠路で伏籠川へ合流していた。遺跡分布図には、この川に沿って800もの住居跡が記されており、サケやマスがよくとれたという古老の話も残っている。琴似川の流域に村(集落)が作られた時代は約1200年前から800年前で、本州の奈良・平安時代にあたる。この時代の土器は、木片のヘラで整形した擦りあとがあることから擦文土器と呼ばれ、この土器が使われた時代を擦文時代という。これは、北海道独特の時代区分である。擦文時代の遺跡の焼土(火をたいた跡)からは、サケ属を中心にした魚や獣の骨、農耕の証拠であるキビ、アワ、オオムギなどの栽培種子が発見されている。
麻生の村からは、糸を紡ぐための紡錘車、ゴザやスダレを編む時に使用したおもりの石も出土している。擦文時代の村の多くは、川筋に作られている。集落が川に近い場合、遡上するサケ・マスの漁や交通、畑作に便利な一方、洪水などの水害なども受けやすい。同一地区に長く住めば食料としての動植物が減少し、連作で地味も衰えることから、村を挙げての移動が必要となる。当時の人々は、琴似川の川筋を移動しながら生活していたため、約400年に渡ってこの地域に多くの住居が残されたと考えられている。

遺跡のあるまち

発掘調査北6条西6丁目の清華亭付近から北大構内を経て麻生町に至るまでは、埋蔵文化財の宝庫と言われている。
昭和52年4月、北25条西13丁目付近で約1千年前の擦文土器が発見された。翌53年には、麻生球場建設のために行われた同地の遺跡調査で、11軒の竪穴住居跡など擦文時代の遺物を多く発掘。これらは当時の生活がよく推定できる資料のため、道の有形文化財に指定されている。62年、北33〜34条にかけての札幌新道、北陽中学校付近の調査では、33条地点から約千〜900年前の竪穴住居跡3軒、焼土15カ所、土器や琥珀の玉などが出土。34条地点の上層からは竪穴住居跡1軒と焼土2カ所、下層からは焼土19カ所と完形土器が20個近く見つかった。翌63年6〜7月には、北大第2農場内の1500平方メートルで発掘した800カ所のうち40カ所から土器40個分の破片が出土している。最近では平成14年8〜10月、新琴似8条1丁目(琴似栄町通側)の30メートル四方から、擦文時代の竪穴住居跡5軒と擦文土器、紡錘車、焼土などが見つかり、地元の小学生らが授業で見学している。

屯田兵入植と亜麻工場

明治20年5月20日、屯田兵第1陣の入植によって新琴似の歴史が始まった。翌21年にも屯田兵が入り、計220人とその家族らによって拓かれたこの地は、琴似町の“ニュータウン”として「新」の字がつけられた。そのころ麻生町のあたりは、隣村の札幌村(現東区)と接する琴似町東端の地「新琴似番外地」と言われる湿地帯だった。明治23年、北海道製麻会社本社工場(北7条東1丁目を中心に昭和42年まで操業)が設立。そこに原料を供給する製線(のちに製繊)工場として、明治24年、琴似(新琴似)工場が操業を開始した。これが、現在の麻生町にあった亜麻工場であり、屯田兵の生活とも密接なつながりがあった。新琴似屯田兵は入植3年で官給が切れ、日用経費に困窮する者がほとんどで、この工場からの作業員募集に大いに助けられた。屯田兵の妻など若い女性は、朝9時から夜6時まで働き、1日15銭だったという。屯田兵村では養蚕のほかに亜麻栽培を奨励、北海道製麻会社も亜麻栽培に必要な種子や肥料を貸与した。昭和13年、同社は陸海軍の共同管理工場になり、「帝国繊維」へ改名。製麻業界をほぼ独占した帝国繊維は、この時代、軍需工場として最も活況を呈した。しかし、敗戦で軍の需要がなくなり、急速に伸びてきた化学繊維に追われて、琴似亜麻工場は衰退。本社工場に先立って昭和32年に閉鎖された。

明治開拓期

琴似川とともに

昭和30年頃の麻生札幌地方について文書に残されている最も古い記録「津軽一統誌」(享保16年=1731年編集)によると、そのころ、現在の札幌市にあたる地域は、一面に原始林が広がり、アシの生い茂る低湿地帯でしかなかった。主として豊平川が形成した扇状地に幾筋もの川の流れが複雑に絡み合い、石狩湾へ向かっている。麻生にあたる地域は琴似川がひときわ複雑に曲流し、篠路方面へ方向転換する中流部に位置していた。明治19年、現在の麻生地点から茨戸へ延長された創成川の前身・琴似新川と、同19〜22年に掘られた人工河川・新川によって分断されるまで、琴似川は、琴似、篠路を経て石狩湾低地帯を貫流する大型河川のひとつだった。現在は所々で姿を消しつつあり、篠路・竜雲寺で伏籠川に注ぐ旧下流部は旧琴似川と呼ばれている。先史時代の遺跡が琴似川沿岸に集中していることから、開拓以前の麻生の歴史も、琴似川と共にあったと言えるだろう。現在の麻生が三角形に仕切られたルーツは、明治19年、新琴似屯田兵の入植に先だって、茨戸街道とそれに直交する新屯田道路(新琴似4番通)の2本が新設されたことによる。すでに明治3年、創成川の前身である寺尾堀が麻生まで延びてきており、この道路2本と寺尾堀によって、札幌区(札幌市の前身)と石狩川の茨戸を結ぶ中間地点に三角地帯が形成された。これが麻生の原形となる区画である。
この底辺をJR函館本線まで南下させた大きな三角地帯は、かつての琴似川流域そのものであった。明治17年に郡区町村編成法による札幌区が設けられた際、その境界が琴似川と定められ、現在の麻生地域は琴似村の一部とされていた新琴似を離れて札幌区に含まれることになった。明治43年4月には再び琴似村に返還されるが、このときの境界線は、北27条までを琴似村字新琴似とし、昭和30年に改めて札幌市と合併するまで続いた。札幌市側から見て北26条以南の西の境界線は、依然として琴似川である。

麻生町誕生から地下鉄開通

麻の生まれたまち・麻生(あさぶ)

麻生団地俯瞰写真「麻生町」の名付け親は、帝国製麻琴似亜麻工場最後の工場長だった黒川修策(昭和57年6月、80歳で没)というのが定説である。当時の関係者によると、昭和29年に第1回の工場閉鎖の動きがあった頃から、黒川は「麻」の字を地名として残したいという考えを持っていたようだ。亜麻工場の閉鎖(昭和32年10月31日)が決まった段階で黒川は、「北海道の亜麻発祥地として、工場の跡地だけでも“麻生”にしたい」と関係者に話していた。当時、亜麻工場の敷地内にあったマコト神社を中心に、その一帯を旧職員のクラブにしたいという考えもあったが、結果的に跡地は売却、マコト神社も月形工場へ移すことになって、黒川の夢は消えたかに思われた。しかし、跡地に住宅用地ができることになり、33年に新地名の相談を受けた黒川は即座に「麻生町」を提言し、住民の署名が集められた。署名は920人にも及び、同年8月には請願書を市議会に提出、9月19日の札幌市議会第3回定例会で地名変更を決定した。34年3月27日付「北海道広報(第7857号)」で、琴似町新琴似の一部を麻生町とすると告示、34年4月1日には、正式に旧亜麻工場一帯(現麻生町1〜9丁目)が、「札幌市麻生町」と命名された。

市電の開通

電車人力車や馬鉄に代わり、札幌に初めて電車が登場したのは、大正7年8月12日。当時の路線は南一条線、停公線(札幌駅前〜中島公園間)、南四条線で、経営は札幌電気軌道株式会社だった。昭和2年12月1日に市が買収して市営となり、直後の同年12月28日に鉄北線(札幌駅裏〜北大前〜北18条)が開業した。昭和7年12月には、鉄北線と北5条線がドッキングして札幌市の中央部と結ばれ、27年9月、鉄北線が単線ながら北24条まで延長された。琴似町が札幌市と合併した昭和30年以降、特に麻生団地が造成された33年から36年にかけては、麻生を中心として住宅が急増。北部の人口も急激に増えたことから、34年12月、市電は北27条まで延長された。その後、北27条から麻生までは38年11月に、麻生から新琴似駅前間は翌39年12月に開通し、市内11路線中、この鉄北線(新琴似駅前〜北5条)が最長(5.228キロ)となった。北27条〜新琴似駅間は軌道の敷設に架線が追いつかず、日本初の路面ディーゼル車が導入された。架線・変電施設がない北24条以北には、車体の屋根にポールがない特製の「D1001」が運行。その広い窓とスマートさが麻生近代化の象徴とも言われ、地域住民に心から歓迎された。

住民の夢、地下鉄開通

地下鉄工事現在の麻生の発展に欠かせない地下鉄は、昭和46年12月16日、第11回冬季オリンピック札幌開催直前に、北24条〜真駒内間(12.1キロ)が開通した。これにより、北24条駅には新川、新琴似、石狩、屯田、篠路、東部など北方面の通勤者が一斉に集中して、都心に向かうようになった。当時、南北線の利用客は1日平均17万9千人で、うち約70%が北24条〜大通間に集中しており、特に北24条駅での朝夕のラッシュはすさまじい混雑ぶりだった。47年6月19日、第2回定例市議会の代表質問で、地元の強い声である地下鉄南北線の延長問題について口火が切られた。同年10月25日、地下鉄南北線北部延長促進期成会が発足、11月8日には期成会主催の住民大会が新琴似農協ホールで開かれ、板垣市長や各市議など約400人もの参加があった。満場一致で決定された決議文は12月5日の市議会に提案され、即日北部延長を議決。翌日、市は運輸大臣に地方鉄道敷設免許申請を行い、翌48年5月12日、申請後半年のスピード認可で免許が交付された。

地下鉄開通49年6月29日、バスターミナル建設予定地(現・ダイエー麻生店横)で開かれた起工式に続き、新琴似小学校で催された期成会主催の祝賀会では、住民挙げて夢実現の第一歩を祝いあった。延長工事は7月上旬から始まったが、用地買収に応じない地主もいて、当初の開業予定である50年11月を大幅に遅れることとなった。53年3月15日、麻生駅で開かれた開通記念式と祝賀会では、地域関係者ら約800人が出席。板垣市長のテープカットに続いて児童約400人と招待者らの800人が大通駅まで試乗し、都心直結の所要時間11分に感激した。翌16日、地下鉄は麻生駅から営業運転を開始し、同時にバスターミナルもこの日開設した。

21世紀の交通体系

地下鉄工事新琴似西地区や石狩市にとっても、麻生以遠の交通体系整備は長年の夢である。地下鉄が麻生に通じてからはその更なる延長を、と常に熱い視線を送り続けている。また、61年7月、道と札幌市は「新交通システム検討委員会」を設置。21世紀の札幌圏の交通体系を模索するため、モノレールなどの実現性について検討している。